山木礼子の歌1/山木礼子歌集『太陽の横』について

先日の批評会で自分が話そうとしたことがうまく説明できていなかった気がするので、自分のための整理を兼ねて、補足しながらここに書いておこうと思います。

 

この歌集でいくつか先に大事な特徴をあげておくと、ひとつには記憶される歌がいくつもあること――こまりますよねの歌とか、茶髪の母、みなまで言はねば、プチトマト、服を拾う歌、階段から落ちてやらうか、美談のやうに、とか、すぐに、ああ、あの歌ねという感じでいくつも思い出される歌がある。刊行からまだ半年ほどしか経っていないけれど、既に歌壇(この言葉を最近は使いづらくなっているけれど)内に共有のキーワードとしてインプットされつつあることを感じている。

 

もうひとつは、この歌集から受け渡されるもの、仮にメッセージと呼んでおくけれど、そういうものがある程度誤解なく誰もに届いていること。細かいところでは読みはぶれると思うけれど、たとえば、

 

芋ほりに子が持ち帰る大ぶりで泥だらけの芋 こまりますよね 43

 

この「こまりますよね」のニュアンスをとらえることは案外に難しい。ユーモアなのか、それとも糞真面目なのか、嫌味なのか、ため息なのか、世間話なのか、読み手によっても、読むときの気分によっても、ここから聞き取られるものは変わってくる気がするし、そしてそのどれもが混在しているようにも思われる。そのことが、この歌集のとても大事なところな気がしているのだけれど。

 

ともかくも、そのような細かいニュアンスを聞き取るもう少し手前のところで、ひとつくっきりとこの歌から受け渡されているものがある。

それは、たとえば子供が土と触れ合うこと、そういう場を保育園なりが提供してくれていることを、親も喜び感謝することが当然とされている、そのような価値観/美談をぞんざいに退ける手つきがこの歌にあることである。

そしてそのような手つきをもって、無意識に前提とされた価値観の強要がそこにあることを読者に知らしめるところがある。だからこの場合メッセージというよりももっと直接的に、世間一般が想定しているものを裏切る行為によって、そのことを受け渡している。「こまりますよね」が想定外であったという事実を。

 

わたし自身、その点において、この歌の読書体験はわりと強烈だった。

 

(つづく)