斎藤茂吉の歌1 ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを/『つきかげ』

先日、担当させていただいている小さな講座で「蟬」というお題を出したら、無観客のオリンピックの試合で蟬の声だけが歓声みたいに聞こえる、という歌が何人もの方から出されていて、おもしろいなと思った。

 

他の国ではまずないことな気がする。

アメリカでは17年に一度ブルードXが大量発生するけど、そんな年にオリンピックはやらないだろうし。

 

茂吉の歌にこんな歌がある。

 

ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを 『つきかげ』71

 

昭和23年(1948年)、戦後わりとすぐの歌。

茂吉がヨーロッパにいたのは、だいたい大正11年(22年)~13年(24年)だから、20年以上前のことになる。

 

パリには蟬がいないんだな、ということがわかるわけだけど、パリに行ったときから20年以上を経ての「パリの森にも鳴かざるものを」という感慨は独特で、妙な引力がある。

 

ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ 『赤光』

 

の歌もそうだけど、「パリの森にも鳴かざるものを」あたりに過去(遠くの地)を現在(目の前)へ、投網を手元にぐいっと手繰り寄せるような時空間の圧縮が感じられるのだ。ちなみにゴオガンの歌では「みればみちのくに」という書き起こし方に同じような圧縮が起こっている。

 

あるいは、同じ感慨を詠ったものでは、次の歌も思い出される。

 

かへりこし日本(につぽん)のくにのたかむらもあかき鳥居もけふぞ身に沁む 『ともしび』

 

これは大正14年、帰国した直後の歌(この年の1月に帰国した)で歌集『ともしび』の冒頭歌。有名な歌だけど、いちおう説明すると「たかむら」は竹藪。そして「あかき鳥居」ということで、みどり(といっても冬の竹藪)やあかの色彩だけではなく、この二つの具体からはヨーロッパの森や教会とは全く風情の異なる日本のミニチュアのようなこまごまとひなびた、薄暗い景観というものが想起させられる。どうも「身に沁む」ものとしてはわびしすぎる気さえする。

だけど、全体に仮名にひらいて朗々と詠っているから、茂吉としてはわびしさを言いたいわけではないんだろうな。

全く異なる景観から日本に戻った時の、周囲の全て(空気のにおいとかまで)が「身に沁む」という、その気持ちはとてもわかる気がする。いろいろ言いたくなってしまう歌だけど、ともかく、ここでわたしが言いたいのは「けふぞ身に沁む」という「ぞ」の強さだ。いま全身でこの場を呼吸し吸収しようとするような「ぞ」である。

 

それと比べれば、

ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを 『つきかげ』71

 

この歌の「鳴かざるものを」という詠嘆にはやはり時間を経た静かな感慨が脈打っている。あるいは年齢的なものかもしれないし、敗戦ということも考えてもいいかもしれない。

 

 

つづく