歌会/堂園昌彦の歌

歌会が基本的に好きじゃない。

理由はいろいろあるけど、私が参加する歌会は無記名式のことが多く、

作者がわからないであれこれ言うことにあまり意味を感じない。

よってたかって、その作者の個性をつぶしてしまっているような気がしなくもない。

だけど、歌会の仲間の歌集を読むとちゃんと個性は生き残っているから、それは私の心配のしすぎかもしれない。

歌会が苦手な一番の理由は無記名の作品がたくさん並んでいる詠草が配られるとパニックを起こすからで、いくら目で追っても、歌が頭に入ってこない悪夢のような状態に陥る。

メンバーの決まった歌会だと、みんなだいたいはどの作者の歌だか見当がつくようになるみたいだけど、わたしはこのパニックのせいで見当がついたためしがない。

それなのに、歌会中に自分の歌については私の歌だと見当つけられている気がするとき、なんだかルール違反のような気持ちになる。それでいつも絶対に自分の歌だと見当つけられない歌を出すのだけど、それって自分にとってもどうでもいい歌なので、よけい歌会に参加する意味をなくす。

 

いや、歌会、実はものすごく嫌いなんだけど、本当はいいところがあることも知っているかもしれない。

 

居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 

この歌は、ガルマン歌会に出された歌だった。

わたしは、とてもいい歌だと思ったけど言葉が全く出てこなかった。

なにか空間全体がここにある気がして「総体的な感じがする」と言った。全く言い得ていない以上にみんなは「相対的」と聞いていたと思う。だれもぴんと来ない感じだったので、目の前にいた堂園さんに向かって繰り返した。堂園さんは親切で「いや、なんかわかる気がします」と言った。

 

その場で言い得なかったことも含めて、それからこの歌は長く私のなかに残っていて、歌集で出会ったとき、光って見えた。

歌会で出会った歌というのは、歌集のなかで光ることがある。

なにか、その歌だけは、他の歌よりもその魅力への理解が及ぶ気がする。

 

居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる 

 

この歌に及ぼされている速度をとても面白く思う。

ちゃんと31音なのに、とてもスローな世界。

全てが現在形――口語で現在形というのは本当は誤りなんだけど、この歌の動詞は現在のことと読みたい――「喋る」「うつむく」「煙草に触れる」は、一首のなかでの動詞が明らかに多く、ふつうならばたばたしそうなのに、むしろ、世界が引き延ばされていくような感覚がある。それはほとんど大麻のような幻影空間をつくりだす。

「美しく」がこれらすべての動詞にかかることで、この魔力が引き起こされている気がする。各動詞のUの音がそれをゆらゆらとうけついでゆく。ひとつひとつの動詞が残像を残していくような気がする。それら残像がまじりあっていく。居酒屋のテーブルの、ひとつの場面のなかで、いくつもの人の動きが、同時に捉えられ、同時に混ざり合っていく。ほとんど恍惚としてその同時を味わいつくす「美しく」の一語がこの場のすべてを掌握する。その場を「美しく」と感じる立ち位置みたいなもの、「美しく」はその場に混ざらない一人によって見いだされるものであることがとても美しく哀しい歌だと思う。

 

堂園さんは煙草を吸わなかったが当時の歌会仲間のほとんどは喫煙者だった。

堂園さんは喫煙者に対してもとても愛情深く、みんなで新幹線に乗るときなど、堂園さんが先に行って喫煙席を確保してくれていて、みんなに褒められていた。