田宮智美の歌3 死ぬのかと思う職場を出た後の透明さにて街を歩けば/『にず』

手に取ったお菓子の数やコーヒーの濃さも診断材料めいて 97

 

心療内科のようなところなのだろう。リラックスさせるために出されるお菓子やコーヒーも「診断材料めいて」警戒してしまう感じは想像できるし、実際にその場のすべては診断材料にもなるんだと思う。田宮智美の歌1で「人は案外、物音の立て方とかで性格やその場の心理を発散していたりする」と書いたけど、ここはまさにそういうものを克明に観察される場所でもあるのだ。「手に取った」という言い方には自分の行動の全てが注視されていることの緊張が貼りついていて、だからこそまた、観察対象にされている自分は淡々と歌われる。

 

職安の職員さんは職員という仕事中なり机挟んで 54

 

前回紹介したこの歌でもやはり、「職員という仕事中」の人と「休職中」の自分という、そこでの立場によって人から見えている相手や自分を詠うところには単なる観察とは違う警戒心が働いていると思う。

 

えらい人ほど開くのか面接官らの両脚に角度差はあり 56

 

この歌では、同じ眼差しから相手が観察される。それはとても実際的な警戒心からくる観察である。自分がこれから働くかもしれない会社は「えらい人ほど」的なものが「両脚の角度差」のような露骨さで表面化している会社なのだ。もちろん「開くのか」だから実際のところはわからないけれども、かなり的確な観察なんだと思う。そして、そういう会社でおそらく最下位になるだろう自分がどんなふうにあるべきか、そんなところまでが相手を観察することのなかに詠われているように思う。

 

社会のいろんな場面で働く警戒心みたいなものがこの歌集にははりつめていて、そこから見える自身の姿が歌からは算出される。田宮さんの歌にある自己の客観描写というのはそういうメタ性からきているように思う。

 

死ぬのかと思う職場を出た後の透明さにて街を歩けば 112

 

だからこの歌がすごく無残に思える。

「死ぬのかと思う」は「職場」にかかりそうで、「街を歩けば」と最後にまでかかってくる。そのあたりのねじりこむ文体。ふだんの淡々としたものが少し壊れている。

一日職場で淡々と自分の立場を演じて、外に出ると「透明」になってしまう。死ぬのかと思うほどに。「透明さ」が究極の疲れとして表出されているのだ。

 

(つづく)