阿木津英の歌1 水しぶき寒く路面をあらふ見ゆ巷(まち)の曇りにホースを曳きて

「八雁」を読み返していて、この歌についての合評がとてもおもしろかった。

 

大辻 ホースの口から水しぶきが噴き出し道の泥を洗い流している。普通なら「ホースが→水を吹く」というのが普通だろう。主語は通常はホースである。が、この歌では水しぶきがホースを引きずっていると感受している。まるで水しぶきが蛇の頭で、その頭がホースという長い腹部を曳いているかのように。その認識に生々しさがあって良い。

真野 前評は「水しぶき」を名詞ととるが、「水」が主語で「しぶき」は動詞「しぶく」の連用形ととりたい。「水しぶき」は水が細かく飛び散ること、またその飛沫であり、コトとモノのいずれをも指しうる(広辞苑は「大量の水が飛沫となって飛び散ること」としてコトのみを挙げる)が、コト的なニュアンスが持ち込まれると、一首の言葉がモノから遠のく。ここは「水」というモノが「しぶき」「あらふ」ほうがいいだろう。下句の「曳きて」の主語も、隠れた「ひと」ととる。路面を洗う水にピントを定めた上句から一転、「巷(まち)の曇りに」とカメラを引いたような語の選択がおのずと「ひと」をイメージさせる。下句の主語が「ひと」ならば、上句もそう読みたくなるのが短歌の生理で、「水しぶき」は「水をしぶかせて」の謂かとも考えたが、「しぶく」に他動詞の用法はない(正確には近世の近松に用例があるが、「無理に誘う」謂である)ようだ。それゆえ、上句と下句で主語を変え、同じ景を詠みかえた歌と解してよいのではないか。

水島 「水しぶき」について、私は、大辻評のように、名詞と解釈した。ただ、後半は「水しぶきがホースを引きずっていると感受」とまでは思わず、後半で主語が変わって、ひとがいるものと取った。また、真野が言うように、「水」が主語、「しぶき」は動詞「しぶく」の連用形とするならば、「水しぶき」よりも激しい水勢で噴き出す情景が浮かぶ。そのようにも取れるかもしれない。

 

第三十六号草林集合評/大辻隆弘・真野少・水島育子(「八雁」2018年1月号)

 

三者の意見はそれぞれ間違っていないし、成立している。というか、すごく粗いことを言えば三人ともこの歌から受け取っているイメージは同じだと思う。そのうえで、言葉ひとつひとつの働きに着目していく。着目することで(読者のわたしからすると着目させられることで)言葉ひとつひとつが歌の中に起こる現象になっていく感覚がある。

 

この議論で大きく分かれているのは、一つには「水しぶき」が名詞であるか、主語と述語であるか、ということ。初句で「水しぶき」と出て来ると、大辻さんや水島さんのように最初はたぶん名詞として、ひと塊として読むんじゃないだろうか。わたしはそうだった。ところが二人目の真野さんが「水、しぶき」という解釈を提示する。とたんに、わたしには水が初句でもって噴き出したような気がした。まさに、大辻さんが「まるで水しぶきが蛇の頭で、その頭がホースという長い腹部を曳いているかのように」と書いているように、歌の頭でもって水が噴き出す。

 

「水しぶき」が名詞であるか、動詞であるかでここのイントネーションが変わるのだ。それは言葉を生き返らせている、ということだと思う。「水しぶき」はそもそもは動詞で、それが名詞化したものに違いない。もう一度、動詞に戻るときに取り戻されるイントネーションがある。

 

水島さんが書かれているように、そのとき、水勢が自ずから変わる。「水しぶき」という名詞からは、ふつうに水がしぶいている様子が見えて来るのに、「水、しぶき」だと、思いっきり水がしぶいている情景が浮かぶのだ。この水島さんの指摘は、すごい発見ではないだろうか。

 

もう一つ、議論が分かれているのが、歌後半の主語の問題。

大辻さんは、「主語は通常はホースである。が、この歌では水しぶきがホースを引きずっていると感受している」という、そこから、さっきの蛇の頭の比喩が出て来る。

一方、真野さんと水島さんはホースを持つ人を背後に置く。この議論もおもしろいなと思った。

 

 水しぶき寒く路面をあらふ見ゆ巷の曇りにホースを曳きて

 

実際には人が持ってることが想定されるとは思う。でも、歌は、後半がホースを持っている人へと主語が変わり、省略されていると取る場合「曳きて」は省略を引き受けるにしては若干おさまりが悪いというか弱い。でも、そのおさまりの悪さが、こう、水のほうの勢いに引っ張られていく状態としても感じられる。すると、水のほうが主語を取り戻していく感覚がある。

そう思うとき改めて「巷の曇りに」という言い方がおもしろく感じられてくる。真野さんはここのところを「路面を洗う水にピントを定めた上句から一転、「巷(まち)の曇りに」とカメラを引いたような語の選択」と書いていて、つまり、後半はちょっと俯瞰するような格好になっているという指摘だと思う。それはよくわかるんだけど、でも「巷の曇り」って、なにか、抽象的で、カメラを引くというよりも、大きな内部に引き込まれるような感覚もある。寧ろ、この歌では「路面をあらふ見ゆ」のところが一番、外部からの視点が鮮明で、カメラを引いているともいえる気がする。

 

でね、ここからがうまく書けるか自信がないんだけども、人が主語と思う場合「あらふ」も人が主語にもなる。水しぶきor水が主語と読むとき、「あらふ」もそうなる。つまり、「あらふ」のなかで二つの主語がぶつかり合っていると思う。同時に、初句切れ、で、あとはすべて人が主語でもある。わたしは最終的にそう読むのだが、けれどもその主語のありかたはいわゆる主語よりもずっと背景にかすんでいる。この歌って、主語が歌のなかで非常に現象的に存在している感じがする。極論すると、見えているものだけが横たわり動き、景そのものがホースを曳いている。それは、歌の言葉そのものが、景であり、景の外側&内側の光景でもあって、そして、また、水を噴き出すホースそのもののような気がしてくる。「水しぶきが蛇の頭で、その頭がホースという長い腹部を曳いているかのように(大辻)」、水はしぶきながら、不思議に人気(ひとけ)のない静けさがある。

 

「水しぶき寒く」ここの音、「みず」「しぶ」「き」「く」と冷たい水のしぶきが路面を、歌を、さむざむと光らせている。

 

三者の議論を読んだことで、歌に三者のどの評もが脈を打っているような感じがするのだ。