田宮智美の歌2 仮住まいだと思うから暮らせてる 繋ぎと思って仕事もできてる/『にず』

「仮」の感覚。

いま日本で暮らしている一定層の人はこの「仮」の感覚のなかで暮らして(暮らせて)いるのではないだろうか。賃貸アパートで、非正規として、じりじりと年を取り、いつの間にか「仮」とはいえない年月を重ねていく。とてもこわいことだと思う。

「暮らせてる」「仕事もできてる」という言い方は、それが仮ではないことの可能性が裏側に貼りついている。

 

貼りつかせながら、淡々と、「暮らせてる」「仕事もできてる」ほうを書く。

 

この歌を読んで思い出すのは、

 

一生の仕事ではなく、だとしたら途中から樹になっていいかな 北山あさひ『崖にて』

 

という歌だ。

意味内容だけで解説するなら「繋ぎ」と思う仕事は「一生の仕事ではなく」とイコールになる。でも、そのことをどう書くかというところで、この二首の文体の表情の違いはだからこそ意味内容を越えて大事だと思う。

 

「繋ぎと思って」いることと、「一生の仕事ではない」と言い切ること。

そこから導き出される「だとしたら樹になっていいかな」と「できてる」の違い。

どちらがいいなんて話ではもちろんなくて、同じ時代のなかで同じしんどさに向かいながらそれぞれの声の出し方が違う。一人一人の文体が獲得されていることに意味を感じる。

 

田宮さんの歌は、外側から淡々と自分を描くところに特徴がある。

 

「死にたい」と隣りで笑う同僚に「えー」と笑うキー叩きつつ/田宮智美『にず』

 

この歌でも、「死にたい」と言うのは他人であり「「えー」と笑う」という脇役として「わたし」は仕事を淡々と続けている。自分にとっての自分がこうして淡々と叙述されることでありふれた「ふつうの人」という表情を維持し続ける。そしてそのような文体を通して、それが決して「ありふれたふつうの人」ではないことの傷みを読者のほうが感じ取る。というか「ありふれたふつうの人」なんてこの世にいないということの傷みを思い知らされる。

 

職安の職員さんは職員という仕事中なり机挟んで 54

タクシーに乗ればタクシーの運転手は運転手なる仕事中なり 55

 

これは就職活動中の一連の歌で、だから、職のない自分の目に「職安の職員さん」も「タクシーの運転手さん」も「仕事がある人」として映っている。その人の人格とかは関係なしにただ自分とは違う「仕事中」の人として。そして、自分もその人たちに対してただの休職中の人としてここにいる。でも、この歌を読むとき、そういう概括的な型をはみ出して、「仕事中」の人もわたしと同じ人なのだ、ということ、休職中の自分も人なのだということのほうがむき出しにされる感じがする。そういうものが淡々とした文体にやはり貼りついている。

 

うしろ髪自分で切って失敗しても結わえてしまえば誰も気づかず 27

 

「うしろ髪自分で切って失敗」する、ということをやらかす。でも、「誰も気づかず」暮らしていく。「結わえてしまえば」という淡々とした処理によって。でも、読者は見てしまう。一人で、鏡に向き合ってうしろ髪をハサミで切っている人を。あちゃっ失敗した、と思って、慌てて結わえてみている人を。だいじょうぶ、誰も気づかない、とほっとしている人を。それは見過ごせないくらい愛らしい人の姿ではないだろうか。

 

つづく。