山木礼子歌集『太陽の横』批評会のお知らせ/6月19日14時~

山木礼子歌集『太陽の横』の批評会にパネリストとして参加させていただきます。

Zoomではありますが、久しぶりの批評会でとても楽しみです。

それにZoomなのでどなたでも参加できます。

会費も無料のようですので、ご都合つきましたらぜひ。

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6/19(日)14時~17時『太陽の横』Zoom批評会を行うことになりました。
ご参加希望の方はこちらからお申込みください。
パネリスト:黒瀬珂瀾佐藤弓生、鈴木ちはね、富田睦子、花山周子、田中槐(司会)
(以上敬称略)
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdxgJAED_ZuwI5CyepGCEY9m-bwoNNZGuto1jS3O_VcFugh0A/viewform?usp=sf_link

お問合せなども上記フォームからどうぞ。

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谷川由里子『SOUR MASH』1/スペアの話

20代の頃だったと思う。電車のドアにもたれて谷川由里子さんとしゃべっていた。

「それ、ずっと気になってたんだけど」と谷川さんが言った。

わたしの手首にはそのとき黒や茶色のゴムが5本くらいはまっていた。

髪を結ぶゴムをすぐなくすので、手首に常備しているうちに増えていた。

なんでこんなにつけているのか、自分で驚いた。

「髪、結ぶやつなんだけど、よくなくすから増えちゃって」と言い訳のように説明すると、

「ああ、スペアね」

谷川さんはそのとき真顔で言った。

 

自分の説明を即座に「スペア」と言い換えられたことに私はショックを受けた。

それはスペアというのだよ、と訂正されたような響きすらあった。

スペアってなんだっけ。と私は焦った。

私はそれまでスペアという言葉をまず自分で使ったことがなかった。

スペアキーとかのスペアだよね。と思う。

私は合鍵としか言ってこなかった。

そうか。これは、スペアなのか。

「よくなくすから手首につけとくゴム。それがいつの間にか増えたもの」はスペアだったのだ。

 

谷川さんの『SOUR MASH』を読みながら、そのときのことをしきりに思い出す。「スペア」という言葉の正しい理解をわたしはおそらくできていない。「スペア」が「予備」という意味だということはもちろんわかっているけど、「スペア」という単語を日常のなかで使ったことは未だにないのだ。

 

言葉って日常で使っている人と使っていない人では、その言葉の印象理解が違う気がする。だからわたしは「スペア」という言葉に「予備」という意味とは少し離れたところで、ある印象を持ってしまっているのだと思う。

その印象は『SOUR MASH』という歌集とふしぎと一致しているのだ。

そして、『SOUR MASH』の、

 

「彼女のやり方は、軽やかで新鮮。

研ぎ澄まされた歌の中から立ち昇るのは、

ただただぼくらのご機嫌な毎日/曽我部恵」

 

この帯文とも一致している。

 

(つづく)

 

阿木津英の歌1 水しぶき寒く路面をあらふ見ゆ巷(まち)の曇りにホースを曳きて

「八雁」を読み返していて、この歌についての合評がとてもおもしろかった。

 

大辻 ホースの口から水しぶきが噴き出し道の泥を洗い流している。普通なら「ホースが→水を吹く」というのが普通だろう。主語は通常はホースである。が、この歌では水しぶきがホースを引きずっていると感受している。まるで水しぶきが蛇の頭で、その頭がホースという長い腹部を曳いているかのように。その認識に生々しさがあって良い。

真野 前評は「水しぶき」を名詞ととるが、「水」が主語で「しぶき」は動詞「しぶく」の連用形ととりたい。「水しぶき」は水が細かく飛び散ること、またその飛沫であり、コトとモノのいずれをも指しうる(広辞苑は「大量の水が飛沫となって飛び散ること」としてコトのみを挙げる)が、コト的なニュアンスが持ち込まれると、一首の言葉がモノから遠のく。ここは「水」というモノが「しぶき」「あらふ」ほうがいいだろう。下句の「曳きて」の主語も、隠れた「ひと」ととる。路面を洗う水にピントを定めた上句から一転、「巷(まち)の曇りに」とカメラを引いたような語の選択がおのずと「ひと」をイメージさせる。下句の主語が「ひと」ならば、上句もそう読みたくなるのが短歌の生理で、「水しぶき」は「水をしぶかせて」の謂かとも考えたが、「しぶく」に他動詞の用法はない(正確には近世の近松に用例があるが、「無理に誘う」謂である)ようだ。それゆえ、上句と下句で主語を変え、同じ景を詠みかえた歌と解してよいのではないか。

水島 「水しぶき」について、私は、大辻評のように、名詞と解釈した。ただ、後半は「水しぶきがホースを引きずっていると感受」とまでは思わず、後半で主語が変わって、ひとがいるものと取った。また、真野が言うように、「水」が主語、「しぶき」は動詞「しぶく」の連用形とするならば、「水しぶき」よりも激しい水勢で噴き出す情景が浮かぶ。そのようにも取れるかもしれない。

 

第三十六号草林集合評/大辻隆弘・真野少・水島育子(「八雁」2018年1月号)

 

三者の意見はそれぞれ間違っていないし、成立している。というか、すごく粗いことを言えば三人ともこの歌から受け取っているイメージは同じだと思う。そのうえで、言葉ひとつひとつの働きに着目していく。着目することで(読者のわたしからすると着目させられることで)言葉ひとつひとつが歌の中に起こる現象になっていく感覚がある。

 

この議論で大きく分かれているのは、一つには「水しぶき」が名詞であるか、主語と述語であるか、ということ。初句で「水しぶき」と出て来ると、大辻さんや水島さんのように最初はたぶん名詞として、ひと塊として読むんじゃないだろうか。わたしはそうだった。ところが二人目の真野さんが「水、しぶき」という解釈を提示する。とたんに、わたしには水が初句でもって噴き出したような気がした。まさに、大辻さんが「まるで水しぶきが蛇の頭で、その頭がホースという長い腹部を曳いているかのように」と書いているように、歌の頭でもって水が噴き出す。

 

「水しぶき」が名詞であるか、動詞であるかでここのイントネーションが変わるのだ。それは言葉を生き返らせている、ということだと思う。「水しぶき」はそもそもは動詞で、それが名詞化したものに違いない。もう一度、動詞に戻るときに取り戻されるイントネーションがある。

 

水島さんが書かれているように、そのとき、水勢が自ずから変わる。「水しぶき」という名詞からは、ふつうに水がしぶいている様子が見えて来るのに、「水、しぶき」だと、思いっきり水がしぶいている情景が浮かぶのだ。この水島さんの指摘は、すごい発見ではないだろうか。

 

もう一つ、議論が分かれているのが、歌後半の主語の問題。

大辻さんは、「主語は通常はホースである。が、この歌では水しぶきがホースを引きずっていると感受している」という、そこから、さっきの蛇の頭の比喩が出て来る。

一方、真野さんと水島さんはホースを持つ人を背後に置く。この議論もおもしろいなと思った。

 

 水しぶき寒く路面をあらふ見ゆ巷の曇りにホースを曳きて

 

実際には人が持ってることが想定されるとは思う。でも、歌は、後半がホースを持っている人へと主語が変わり、省略されていると取る場合「曳きて」は省略を引き受けるにしては若干おさまりが悪いというか弱い。でも、そのおさまりの悪さが、こう、水のほうの勢いに引っ張られていく状態としても感じられる。すると、水のほうが主語を取り戻していく感覚がある。

そう思うとき改めて「巷の曇りに」という言い方がおもしろく感じられてくる。真野さんはここのところを「路面を洗う水にピントを定めた上句から一転、「巷(まち)の曇りに」とカメラを引いたような語の選択」と書いていて、つまり、後半はちょっと俯瞰するような格好になっているという指摘だと思う。それはよくわかるんだけど、でも「巷の曇り」って、なにか、抽象的で、カメラを引くというよりも、大きな内部に引き込まれるような感覚もある。寧ろ、この歌では「路面をあらふ見ゆ」のところが一番、外部からの視点が鮮明で、カメラを引いているともいえる気がする。

 

でね、ここからがうまく書けるか自信がないんだけども、人が主語と思う場合「あらふ」も人が主語にもなる。水しぶきor水が主語と読むとき、「あらふ」もそうなる。つまり、「あらふ」のなかで二つの主語がぶつかり合っていると思う。同時に、初句切れ、で、あとはすべて人が主語でもある。わたしは最終的にそう読むのだが、けれどもその主語のありかたはいわゆる主語よりもずっと背景にかすんでいる。この歌って、主語が歌のなかで非常に現象的に存在している感じがする。極論すると、見えているものだけが横たわり動き、景そのものがホースを曳いている。それは、歌の言葉そのものが、景であり、景の外側&内側の光景でもあって、そして、また、水を噴き出すホースそのもののような気がしてくる。「水しぶきが蛇の頭で、その頭がホースという長い腹部を曳いているかのように(大辻)」、水はしぶきながら、不思議に人気(ひとけ)のない静けさがある。

 

「水しぶき寒く」ここの音、「みず」「しぶ」「き」「く」と冷たい水のしぶきが路面を、歌を、さむざむと光らせている。

 

三者の議論を読んだことで、歌に三者のどの評もが脈を打っているような感じがするのだ。

 

11/23(火) 文学フリマ東京のお知らせ

来週火曜日の文学フリマ東京で以下のものを販売予定です。

★ブース セ-6 短歌同人誌「外出」六号(48頁)&別冊付録(16頁) 頒価800円(税込)

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★ブース セ-5

『3653日目ー〈塔短歌会・東北〉震災詠の記録』/総頁475 定価2,700円(税別)

「塔短歌会・東北」が東日本大震災から十年間出し続けてきた冊子を書籍化。

24名のメンバーの作品1273首、作品やエッセイ収録。

 

「3666日目」東日本大震災から十年を詠む/45頁 定価600円

『3653日目」以降の2021年発行の冊子

15名による新作十首+エッセイ、特集エッセイ「今思う、〈震災〉を詠うこと」収録

 

短歌同人誌「ランリッツ・ファイブ」/100頁 頒価1100円(税込)

1980年生まれの石川美南・田宮智美・橋場悦子・花山周子・山川藍による一度限りの同人誌。新作20首+歌集評+座談会+1980~2000年年表収録 

詳しくは→「ランリッツ・ファイブ」

フリーペーパー「夏休みの宿題」

石川美南と伊舎堂仁によるひと夏の読書感想文

 

花山周子歌集『屋上の人屋上の鳥』(2,500円)/『風とマルス』(2,500円)

 

ペペンシリーズ①『ペペンの宝島』 

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★スタンプもあるよ★

https://line.me/S/sticker/16265152

https://line.me/S/sticker/16265127

 

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それから、わたしが2019年から講師を務めさせていただいている田無公民館の「たらちねmama」の会が同人誌を発行します。

★ブース セ-21

短歌同人誌「近所」/37ページ 頒価500円

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・賑やかなマダガスカルのジャングルを桃太郎には歩いてもらう/黒澤沙都子

・手を広げ富士と筑波が胸の中ここからここまでおらのものだぞ/宮原まどか

・大鳥居くぐる下校の小学生 われの旅路と交差していく/散田帽子

・願わくは最強であれ 画数で選ばれし字を召喚している/小林礼歩

・気軽には絶対会えない人たちをこんなに好きってどういうことなの/阿部二三

・果てしなく繰り返される「どーして?」に「どーしても」と言う敗北がある/本条恵

 

「いちごつみ」と「付け句」の試みも、これまでに味わったことのないおもしろさが醸し出されています。いい歌たくさんあるのでぜひブースにお立ち寄りください!

2021年 掲載情報

2021年

11月

NEW・盆栽/14首(「外出」六号)

NEW・覚醒の歌/平岡直子歌集『みじかい髪も長い髪も炎』栞(「外出」別冊付録)

・作品欄合評(「八雁」11月号)

・私の本棚/私の一冊(「歌壇」11月号

・紙のことなど/連載コラム「いろいろな現場から」(「短歌」11月号

9月

・9月12日(日)15:30~

第11回塔新人賞・塔短歌会賞オンライン授賞式記念座談会(塔短歌会会員限定)

第11回塔新人賞・塔短歌会賞オンライン授賞式 | 塔短歌会 (toutankakai.com)

・作品欄合評(「八雁」9月号)

・生成される言葉のイルミネーション/平岡直子歌集『みじかい髪も長い髪も炎』書評(「短歌往来」9月号

・男の人に、そんなに責任があるでせうか/特集 葛原妙子(「ねむらない樹」vol.7

・あっちですか/東直子穂村弘著『短歌遠足帖』書評(「歌壇」9月号

・天候ー二〇二一年五月~六月ー/作品連載24首(「現代短歌」9月号

8月

・そらみみ/10首 (「短歌研究」8月号※水原紫苑責任編集号

7月

・平岡直子の作品とのとても個人的な夜の話/(「井泉」100号

・大西民子の手の歌/特集 抽象VS.具象(「短歌」7月号

・石川美南のファンタジーについての考察/(「短歌研究」7月号

・作品欄合評(「八雁」7月号

6月

・『崖にて』について 序/北山あさひ歌集『崖にて』書評(「まひる野」6月号

・ぜ/特集 話し言葉の効果 (「歌壇」6月号

5月 

ミドリムシ/20首(「ランリッツ・ファイブ」

・石川美南歌集『体内飛行』書評(「ランリッツ・ファイブ」

ハイパークロス!Zoomで、ランリッツ・ファイブ座談会― 五人で五冊の歌集を読む ―

琥珀/20首(「外出」五号) 

・白飛び/作品連載24首(「現代短歌」5月号

・ストップ・ソロス法/7首 (「短歌研究」5月号

・作品欄合評(「八雁」5月号

 4月

・フェティッシュな時間感覚/永井祐歌集『広い世界と2や8や7』書評

「短歌往来」4月号

3月 

 ・作品欄合評(「八雁」3月号

2月

・二つの賞について(2)/時評(「短歌研究」2月号

・読者投稿欄選&選評/(「ねむらない樹」6号

1月

・二つの賞について(1)/時評(「短歌研究」1月号

・自転車日和/20首(「合歓」91号)

 

以下書きかけ

2020年はこちら→2020年に書いたものなど - akaruikisetsuの日記 (hatenadiary.jp)

2019年以前はこちら→

 

 

 

   

イベントのお知らせ2つ

山崎聡子さんの『青い舌』刊行記念イベントが9月4日(土)19:00からあるようです。

一昨年、『母の愛、僕のラブ』を刊行された柴田葵さんとのトークイベント。

詳細はこちら→

『青い舌』刊行記念 山崎聡子さん×柴田葵さんオンライントークイベント「82年生まれ、わたしたちの短歌ナイト」を開催します。|イベント|新着情報|書肆侃侃房 (kankanbou.com)

 

山崎聡子『青い舌』→http://www.kankanbou.com/books/tanka/gendai/0470

柴田葵『母の愛、僕のラブ』→http://www.kankanbou.com/books/tanka/sasai/0387

 

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それから、こちらは塔短歌会会員のみの参加になるのですが、

第11回塔新人賞・塔短歌会賞オンライン授賞式が9月12日(日)15:00から行われます。

15:30からの座談会には私も参加させていただきます。

座談会メンバーは、浅野大輝、橋本牧人、花山周子、川本千栄(司会)

塔新人賞受賞作、塔短歌会賞受賞作、第63回短歌研究新人賞受賞作(平出奔「Victim」)、第32回歌壇賞受賞作(帷子つらね「ハイドランジア」)を中心にお話しする予定です。

 

詳しくはこちら→第11回塔新人賞・塔短歌会賞オンライン授賞式 | 塔短歌会 (toutankakai.com)

斎藤茂吉の歌1 ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを/『つきかげ』

先日、担当させていただいている小さな講座で「蟬」というお題を出したら、無観客のオリンピックの試合で蟬の声だけが歓声みたいに聞こえる、という歌が何人もの方から出されていて、おもしろいなと思った。

 

他の国ではまずないことな気がする。

アメリカでは17年に一度ブルードXが大量発生するけど、そんな年にオリンピックはやらないだろうし。

 

茂吉の歌にこんな歌がある。

 

ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを 『つきかげ』71

 

昭和23年(1948年)、戦後わりとすぐの歌。

茂吉がヨーロッパにいたのは、だいたい大正11年(22年)~13年(24年)だから、20年以上前のことになる。

 

パリには蟬がいないんだな、ということがわかるわけだけど、パリに行ったときから20年以上を経ての「パリの森にも鳴かざるものを」という感慨は独特で、妙な引力がある。

 

ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ 『赤光』

 

の歌もそうだけど、「パリの森にも鳴かざるものを」あたりに過去(遠くの地)を現在(目の前)へ、投網を手元にぐいっと手繰り寄せるような時空間の圧縮が感じられるのだ。ちなみにゴオガンの歌では「みればみちのくに」という書き起こし方に同じような圧縮が起こっている。

 

あるいは、同じ感慨を詠ったものでは、次の歌も思い出される。

 

かへりこし日本(につぽん)のくにのたかむらもあかき鳥居もけふぞ身に沁む 『ともしび』

 

これは大正14年、帰国した直後の歌(この年の1月に帰国した)で歌集『ともしび』の冒頭歌。有名な歌だけど、いちおう説明すると「たかむら」は竹藪。そして「あかき鳥居」ということで、みどり(といっても冬の竹藪)やあかの色彩だけではなく、この二つの具体からはヨーロッパの森や教会とは全く風情の異なる日本のミニチュアのようなこまごまとひなびた、薄暗い景観というものが想起させられる。どうも「身に沁む」ものとしてはわびしすぎる気さえする。

だけど、全体に仮名にひらいて朗々と詠っているから、茂吉としてはわびしさを言いたいわけではないんだろうな。

全く異なる景観から日本に戻った時の、周囲の全て(空気のにおいとかまで)が「身に沁む」という、その気持ちはとてもわかる気がする。いろいろ言いたくなってしまう歌だけど、ともかく、ここでわたしが言いたいのは「けふぞ身に沁む」という「ぞ」の強さだ。いま全身でこの場を呼吸し吸収しようとするような「ぞ」である。

 

それと比べれば、

ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを 『つきかげ』71

 

この歌の「鳴かざるものを」という詠嘆にはやはり時間を経た静かな感慨が脈打っている。あるいは年齢的なものかもしれないし、敗戦ということも考えてもいいかもしれない。

 

 

つづく

 

小島なおの歌1 八月に生まれしわれを差し置いて緑の夏は加速しており/『サリンジャーは死んでしまった』

 「差し置いて」という言葉が強くて、歌集をぱらぱらめくっていて目に留まった。

この場合「差し置いて」はわたしの側の強さ(このわたしを差し置くとは!みたいな)ではなく、端的に加速してゆく緑の夏の強さなのだ。サ行音の鋭さも相まって、切り立つような季節の推移を感じさせる。

 

自分の生まれ月について、みんなそれぞれの思いがあるような気がするけど、

それにしても八月ほど強烈に自分を差し置く生まれ月はないかもしれないと思った。

 

 

歌会/堂園昌彦の歌

歌会が基本的に好きじゃない。

理由はいろいろあるけど、私が参加する歌会は無記名式のことが多く、

作者がわからないであれこれ言うことにあまり意味を感じない。

よってたかって、その作者の個性をつぶしてしまっているような気がしなくもない。

だけど、歌会の仲間の歌集を読むとちゃんと個性は生き残っているから、それは私の心配のしすぎかもしれない。

歌会が苦手な一番の理由は無記名の作品がたくさん並んでいる詠草が配られるとパニックを起こすからで、いくら目で追っても、歌が頭に入ってこない悪夢のような状態に陥る。

メンバーの決まった歌会だと、みんなだいたいはどの作者の歌だか見当がつくようになるみたいだけど、わたしはこのパニックのせいで見当がついたためしがない。

それなのに、歌会中に自分の歌については私の歌だと見当つけられている気がするとき、なんだかルール違反のような気持ちになる。それでいつも絶対に自分の歌だと見当つけられない歌を出すのだけど、それって自分にとってもどうでもいい歌なので、よけい歌会に参加する意味をなくす。

 

いや、歌会、実はものすごく嫌いなんだけど、本当はいいところがあることも知っているかもしれない。

 

居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 

この歌は、ガルマン歌会に出された歌だった。

わたしは、とてもいい歌だと思ったけど言葉が全く出てこなかった。

なにか空間全体がここにある気がして「総体的な感じがする」と言った。全く言い得ていない以上にみんなは「相対的」と聞いていたと思う。だれもぴんと来ない感じだったので、目の前にいた堂園さんに向かって繰り返した。堂園さんは親切で「いや、なんかわかる気がします」と言った。

 

その場で言い得なかったことも含めて、それからこの歌は長く私のなかに残っていて、歌集で出会ったとき、光って見えた。

歌会で出会った歌というのは、歌集のなかで光ることがある。

なにか、その歌だけは、他の歌よりもその魅力への理解が及ぶ気がする。

 

居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる 

 

この歌に及ぼされている速度をとても面白く思う。

ちゃんと31音なのに、とてもスローな世界。

全てが現在形――口語で現在形というのは本当は誤りなんだけど、この歌の動詞は現在のことと読みたい――「喋る」「うつむく」「煙草に触れる」は、一首のなかでの動詞が明らかに多く、ふつうならばたばたしそうなのに、むしろ、世界が引き延ばされていくような感覚がある。それはほとんど大麻のような幻影空間をつくりだす。

「美しく」がこれらすべての動詞にかかることで、この魔力が引き起こされている気がする。各動詞のUの音がそれをゆらゆらとうけついでゆく。ひとつひとつの動詞が残像を残していくような気がする。それら残像がまじりあっていく。居酒屋のテーブルの、ひとつの場面のなかで、いくつもの人の動きが、同時に捉えられ、同時に混ざり合っていく。ほとんど恍惚としてその同時を味わいつくす「美しく」の一語がこの場のすべてを掌握する。その場を「美しく」と感じる立ち位置みたいなもの、「美しく」はその場に混ざらない一人によって見いだされるものであることがとても美しく哀しい歌だと思う。

 

堂園さんは煙草を吸わなかったが当時の歌会仲間のほとんどは喫煙者だった。

堂園さんは喫煙者に対してもとても愛情深く、みんなで新幹線に乗るときなど、堂園さんが先に行って喫煙席を確保してくれていて、みんなに褒められていた。

田宮智美の歌3 死ぬのかと思う職場を出た後の透明さにて街を歩けば/『にず』

手に取ったお菓子の数やコーヒーの濃さも診断材料めいて 97

 

心療内科のようなところなのだろう。リラックスさせるために出されるお菓子やコーヒーも「診断材料めいて」警戒してしまう感じは想像できるし、実際にその場のすべては診断材料にもなるんだと思う。田宮智美の歌1で「人は案外、物音の立て方とかで性格やその場の心理を発散していたりする」と書いたけど、ここはまさにそういうものを克明に観察される場所でもあるのだ。「手に取った」という言い方には自分の行動の全てが注視されていることの緊張が貼りついていて、だからこそまた、観察対象にされている自分は淡々と歌われる。

 

職安の職員さんは職員という仕事中なり机挟んで 54

 

前回紹介したこの歌でもやはり、「職員という仕事中」の人と「休職中」の自分という、そこでの立場によって人から見えている相手や自分を詠うところには単なる観察とは違う警戒心が働いていると思う。

 

えらい人ほど開くのか面接官らの両脚に角度差はあり 56

 

この歌では、同じ眼差しから相手が観察される。それはとても実際的な警戒心からくる観察である。自分がこれから働くかもしれない会社は「えらい人ほど」的なものが「両脚の角度差」のような露骨さで表面化している会社なのだ。もちろん「開くのか」だから実際のところはわからないけれども、かなり的確な観察なんだと思う。そして、そういう会社でおそらく最下位になるだろう自分がどんなふうにあるべきか、そんなところまでが相手を観察することのなかに詠われているように思う。

 

社会のいろんな場面で働く警戒心みたいなものがこの歌集にははりつめていて、そこから見える自身の姿が歌からは算出される。田宮さんの歌にある自己の客観描写というのはそういうメタ性からきているように思う。

 

死ぬのかと思う職場を出た後の透明さにて街を歩けば 112

 

だからこの歌がすごく無残に思える。

「死ぬのかと思う」は「職場」にかかりそうで、「街を歩けば」と最後にまでかかってくる。そのあたりのねじりこむ文体。ふだんの淡々としたものが少し壊れている。

一日職場で淡々と自分の立場を演じて、外に出ると「透明」になってしまう。死ぬのかと思うほどに。「透明さ」が究極の疲れとして表出されているのだ。

 

(つづく)

関連書籍

同人誌

「外出」五号→葉ね文庫さんでバックナンバーとともに販売しています。

      →本のあるところajiroさんで販売しています。

      →がたんごとんさんで販売しています。

      →うたとポルスカさんで販売しています。

      →胡桃堂書店さんでバックナンバーとともに販売しています。

「ランリッツ・ファイブ」→申込フォームは終了しました。今後の書店販売等については改めてお知らせします。

『3653日目』 詳細&お求めは→『3653日目』申込フォーム

 

歌集

『林立』(本阿弥書店

『風とマルス』(青磁社)

『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房)

 

解説・栞

東直子歌集『春原さんのリコーダー』(ちくま文庫)/解説

東直子歌集『青卵』(ちくま文庫)/解説

山下翔歌集『温泉』(現代短歌社)/栞

『中野昭子歌集』(砂子屋書房・現代短歌文庫)/解説

田宮智美の歌2 仮住まいだと思うから暮らせてる 繋ぎと思って仕事もできてる/『にず』

「仮」の感覚。

いま日本で暮らしている一定層の人はこの「仮」の感覚のなかで暮らして(暮らせて)いるのではないだろうか。賃貸アパートで、非正規として、じりじりと年を取り、いつの間にか「仮」とはいえない年月を重ねていく。とてもこわいことだと思う。

「暮らせてる」「仕事もできてる」という言い方は、それが仮ではないことの可能性が裏側に貼りついている。

 

貼りつかせながら、淡々と、「暮らせてる」「仕事もできてる」ほうを書く。

 

この歌を読んで思い出すのは、

 

一生の仕事ではなく、だとしたら途中から樹になっていいかな 北山あさひ『崖にて』

 

という歌だ。

意味内容だけで解説するなら「繋ぎ」と思う仕事は「一生の仕事ではなく」とイコールになる。でも、そのことをどう書くかというところで、この二首の文体の表情の違いはだからこそ意味内容を越えて大事だと思う。

 

「繋ぎと思って」いることと、「一生の仕事ではない」と言い切ること。

そこから導き出される「だとしたら樹になっていいかな」と「できてる」の違い。

どちらがいいなんて話ではもちろんなくて、同じ時代のなかで同じしんどさに向かいながらそれぞれの声の出し方が違う。一人一人の文体が獲得されていることに意味を感じる。

 

田宮さんの歌は、外側から淡々と自分を描くところに特徴がある。

 

「死にたい」と隣りで笑う同僚に「えー」と笑うキー叩きつつ/田宮智美『にず』

 

この歌でも、「死にたい」と言うのは他人であり「「えー」と笑う」という脇役として「わたし」は仕事を淡々と続けている。自分にとっての自分がこうして淡々と叙述されることでありふれた「ふつうの人」という表情を維持し続ける。そしてそのような文体を通して、それが決して「ありふれたふつうの人」ではないことの傷みを読者のほうが感じ取る。というか「ありふれたふつうの人」なんてこの世にいないということの傷みを思い知らされる。

 

職安の職員さんは職員という仕事中なり机挟んで 54

タクシーに乗ればタクシーの運転手は運転手なる仕事中なり 55

 

これは就職活動中の一連の歌で、だから、職のない自分の目に「職安の職員さん」も「タクシーの運転手さん」も「仕事がある人」として映っている。その人の人格とかは関係なしにただ自分とは違う「仕事中」の人として。そして、自分もその人たちに対してただの休職中の人としてここにいる。でも、この歌を読むとき、そういう概括的な型をはみ出して、「仕事中」の人もわたしと同じ人なのだ、ということ、休職中の自分も人なのだということのほうがむき出しにされる感じがする。そういうものが淡々とした文体にやはり貼りついている。

 

うしろ髪自分で切って失敗しても結わえてしまえば誰も気づかず 27

 

「うしろ髪自分で切って失敗」する、ということをやらかす。でも、「誰も気づかず」暮らしていく。「結わえてしまえば」という淡々とした処理によって。でも、読者は見てしまう。一人で、鏡に向き合ってうしろ髪をハサミで切っている人を。あちゃっ失敗した、と思って、慌てて結わえてみている人を。だいじょうぶ、誰も気づかない、とほっとしている人を。それは見過ごせないくらい愛らしい人の姿ではないだろうか。

 

つづく。

 

 

 

田宮智美の歌1 「死にたい」と隣りで笑う同僚に「えー」と笑うキー叩きつつ/『にず』

この歌について「ランリッツ・ファイブ」の座談会で私は、

 美南さんが、文体でも「大丈夫」って言っちゃてるって書いてて、田宮さんの文体って本当に淡々としてて、それこそさっきの歌の、ガラスに映ったふつうの人の文体をしてるんですよね。だけど、中身はめちゃめちゃ怨念っぽいものだったり感情があって、それが見えるのがすごいよね。「えー」が悲鳴だってことが。

としゃべったのだけど、この「えー」が悲鳴だってことが見えるのは、「キー叩きつつ」の効果が大きいよなと思う。「きーたたきつつ」の音の、カ行音もタ行音も、硬い音で、それがたたたた、と並んでいる。「キー叩きつつ」の圧縮された表記に、短く速くキーボードを打つ指の動き、タイピングの音、そしてカタカナの「キー」が金属製の音としても聞こえ、「えー」という短い受け答えとせっかちなその作業のうちに、キーという悲鳴が挿入される。

 

作業を、そのまま詠っていることで、その場のリアルな心理は言葉で説明する以上に、視覚聴覚によって伝わってしまう。そしてそのような伝わり方自体がまたリアルだと思う。

人は案外、物音の立て方とかで性格やその場の心理を発散していたりする。そういうものは無言であるからこそ、感じ取る側も無言で感じ取る。くわばらくわばらとか思って、退散したりする。ふだんから職場にいるもの同士、いっしょに暮しているもの同士、互いにそういう無言のコミュニケーションを人はとっている。

 

「えー」と笑うキー叩きつつ、という彼女の姿に現場の人が気づいていたかどうかは別の話だが、読者として現場に居合わせるとき、発散される悲鳴を聞き取ってしまうのだ。

 

田宮智美歌集『にず』

「ランリッツ・ファイブ」

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